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不合理と非合理の意味、真に合理的な考え方とは? [哲学]

世の中には不合理なことが多くそれは多くの場合、不公正や不公平がまかり通っていることに関する不満を表す言葉としても用いられる言葉です。確かに、現在の政治家の汚職や金の問題、経済格差や犯罪者を罰する法制度など不合理なことが多いように思いますねぇ。


そのような時に私たちは不合理であるとか、あるいは非合理であるとか述べたりしますがこれらの語にはどんな意味があるのでしょうか?


辞書によると、

不合理とは道理・理屈に合っていないこと。筋の通らないことと定義されています。


また


非合理とは論理や道理に合わないことや理性や論理ではとらえきれないことと定義されています。


両者は似ている言葉ですが違いは不合理とはどんな場合にも好ましくない場合に使われるのに対して非合理とは場合によっては好ましい場合にも使われる言葉で特に一般の常識を覆す考えや技術などに関して提案される際に一般的な理性や論理からは外れているという意味で非合理的と評されたりしますが、それは批判ではなく称賛とも言えるでしょう。


それで時には非合理主義などという表現が、物事をいつも規定の概念にとらわれない方法で見たり考えたり取り組んだりする人たちの主義を表す言葉として使われたりします。確かに物事をいつも規定の概念にとらわれないで自由に考え独創的な考えや発想を生み出すということは良いことかもしれませんね。


不合理主義はどうでしょうか?最悪ですね。完全に悪人の思考パターンです。このように不合理と非合理は違うのです。


私も非合理的な考え方をするようにしていますし、とても大切な考え方だとは思います。ただ、“ 主義 ”という言葉がつくとそこまでの強い考えを持っていませんし、また持つべきでもないとも思います。なぜなら、“ 主義 ”というのは一つの拘束された信念、または信条であり、人の考えや行動を拘束するものにもなります。“ 主義 ” はイズムという言葉で表されますがこの表現がつく考えがもたらしてきたものを考えてください。ナチズム、ファシズム、エゴイズム、などなど。。。“ 主義 ”が付くと暴走すると、とんでもなく有害になる可能性があるということがこれらから分かると思います。


せっかく非合理という自由な思考、自由な行動の源となる考えを得ているのに主義になると途端に片苦しくなります。自分は非合理主義者だからといって他の異なる考えを排除しようとしたり、攻撃するようにもなるかもしれません。ですから非合理という有益な側面を持つ概念も“ 主義 ”によって縛るなら途端に有害な側面を持つようになるということも覚えておきたいですね。


例えば独創的な考えによって稀な作品が生み出され、規定の論理から外れた方法で驚くべき発見や発明がなされるかもしれません。しかしそこには多くの、あるいは大きな犠牲が伴っているかもしれません。例えばそのような非合理的な考えに基づく行動によって時には関係する多くの人が不合理を忍ばなければならないこともあり得ます。つまり、不公平や不公正を経験しなければならないこともあるのです。実際歴史を通じて人類は多くの知識人たちを生み出し、そのような知識人たちは非合理的な考えによって多くの哲学や宗教、医学や科学を生み出し、それによって人類は今日に至るまで発展して来たのです。ただその代償として多くの不公正や不公平が、つまり不合理がまかり通り正当化されてきたということを忘れるべきではありません。


ですからそのような意味では不合理も非合理もともに有害であるとさえ言えるでしょう。


では一番いいのは合理でしょうか?


合理とは辞書によると、道理にかなうようにすること。理屈に合っている。筋が通っている。とか、能率を上げるためにむだを省き、生産性を高めること。


などと定義されています。


確かにこの説明を見る限り合理的であるということは良いことのように思えます。私も常に合理的であるようにしています。(さっきは非合理的な考え方がいいと言ってたやん!)


確かにそのような突っ込みがありそうですが、端的に言って私は基本的に合理的であるべきだと思います。しかし、非合理的な考えも進んですべきであるということが私の哲学です。


合理は確かに定義上好ましいのですが、道理、理屈、筋にも色々あります。広小路道りとか、屁理屈とか、腹筋とか(笑)スミマセン。


人間の規定概念というものは時代によって、国や地域によって、世代によって性別によって異なるものですからそれらを包含した絶対的な真理というものがあるならそれに基づいた合理主義を説くことは良いかもしれませんが、私たち人間は絶対的な真理など持っていません。それを持っているのはまさに神です。様々な宗教はその神からのお告げと言ってこれが絶対的な真理だと宗教上の戒律を作り上げてゆきましたが、それはまさに多くの不平等や不公正を、つまり不合理を生み出してゆく原因となりました。ですから絶対的な真理はあるかもしれませんが、それを持っている人間はいないはずですから自分や周囲の人間の常識に基づく論理に縛られた合理主義は有害となるかもしれないのです。それは合理主義でありながら多くの不合理を生みだす原因となり得るのです。 ですから私は基本的に合理的ではあっても合理主義ではなく、非合理的な考え方をするのにもやぶさかではないのです。



今後も規定の概念について学び続けてゆくことでもっと合理的なってゆきたいとも思います。しかし、決して昔の偉人だかなんだか知りませんが生きていた時にどんな人格だったのかも定かではなく、変人だったかもしれない死者に、今生きている人間が拘束されたくはありません。もちろん過去の業績を評価しつつも一定の敬意を保ちつつ新たな思考領域を開拓してゆくのです。そのためには非論理的な考えは欠かせません。


場合によっては奇跡でさえ信じられるかもしれません。この21世紀の現代に5000年前の人がタイムスリップし空を飛ぶ飛行機やテレビ、携帯電話車や高層ビルを見たらどう感じるでしょうか?5000年前の規定の論理に縛られていたらとても受け入れられないでしょう。しかし現に生じていることを受け入れるために奇跡だ!とか神だ!とか悪魔の仕業だ!と叫ぶかもしれません。しかし現代の私たちにとってはそれらは奇跡でも何でもなく合理と非合理を組み合わせて研究し生み出してきたテクノロジーの一つ一つに過ぎないのです。


ではこれから5000年後はどうでしょうか?私たちはまだ分からないことが沢山あるのではないでしょうか?現在、規定の論理で説明できないことや筋の通らないことをすべて排除する態度は避けたいですね。非合理的な思考で柔軟に考えて行きたいものです。今は奇跡と思えることにも論理的説明が出来るようになるかもしれません。


また、逆の極端も避けましょう。非合理主義による合理主義の攻撃、つまり規定の論理を攻撃し、また確証も確立もさされていない考えに基づいて行動することです。少なくとも今日広く受け入れられている規定の論理、道理は時の様々な試練に耐えてきていることは事実です。そのような道理、論理は一定の敬意に値します。例えそれが不完全であってもです。それらを攻撃し、排除しようとする人はその代わりになるものを必ず提供しなければなりません。しかもそれは排除したものより優れていて安定しているものでなくてはなりません。


攻撃し覆してはみたもののその代わりになるものはなかったとか、あってもすぐに廃れたとかであっては関係する人たちが路頭に迷うことになるのです。


何かが変化するとき一時的に不安定を経験するのは仕方のないことかもしれませんが、長期的な不安定は有害です。災害など不慮の出来事でそうなるのは仕方のないことかもしれませんが、場合によっては人為的にそのような不安定は引きおこなされることがあります。不合理、不公正や不公平に対する反発によってもたらされる過激な行動はまさにそうです。


このように考えると不合理は勿論駄目ですが、合理、非合理も人間の考えを導くには未完成な言葉だと言えるかもしれません。


合理も非合理も役者としてどちらも必要ではありますが、どちらが主役という訳ではなく、どちらかというとどちらも脇役なのかもしれません。では主役はなんだろう?



愛かな?



私の真夜中の哲学に付き合ってくださって有り難うございます。


偉そうに生意気なことを口走ってしまったことを気分を害された方にはお詫びしておきます。(^_^;












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